なぜ私たちは献げるべきなのですか?
多くの未信者が、教会に行って献金に関する説教を聞き、福音や神のことばがすごく嫌になる、という経験をします。彼らは、牧師がただ献金を催促する人物として説教していると感じ、教会を去ります。率直に言って、このようなことがよくあるのが現実かもしれません。多くの牧師が収入不足に神経質になり、マラキ書のような聖書箇所を引っ張り出してきて、その聖書箇所で教会員たちの頭を叩きます。
十分の一献金(「什一献金」や「収穫の初穂」とも呼ばれることがあります)とはいったい何でしょうか? 十分の一献金の目的は何であり、それは何を成し遂げるものなのでしょうか? 私たちの収穫の初穂(初物)を献げることによって、私たちは神に栄誉を帰し、神を私たちの生で第一とするのです。そのようにして私たちは、神がどなたであり、神が私たちの生で何をなさっているかを認めるのです。十分の一献金の目的を調べてみましょう。
マラキ書3章10節は、「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ」と語っています。十分の一献金を献げる第一の理由は、各教会の働きを養うことです。「食物」とは、教会の教職者(牧師)を養うということです。現代では、十分の一献金は、教会の教職者とその家族を養い、教会の施設の維持や運営の費用(家賃、電気代、保険料、他)を支払うために用いられます。十分の一献金は神の家のためのものであることを覚えてください。十分の一献金は、自分がしたいと思うときに貧しい人にあげるものではありません。もちろん、貧しい人に施しをすることに何か間違いがあるわけではありません。それは実際、教会共同体として教会員たちがなすべきことです。教会は、1人の個人ができるよりもより効果的にその地域のニーズに仕えることができます(その個人が非常に裕福で、その教会の地域の必要に仕えることができる物資をもっているのでない限り)。
十分の一献金を献げる第二の理由です。それは、神が実際に、私たちがご自分を試すことを望んでおられる領域です。ヘブル人への手紙は、信仰がなければ神に喜ばれることはできないと教えています(11章6節)。ただ神を信じる人は、神に喜ばれているのです。それでは、神はただご自分を信じることを私たちに求めておられるのに、献げることに関しては、神を試すべきなのでしょうか? 私たちを愛する父なる神は、次のことを明確に語っておられます。すなわち、神がご自分を試せと私たちに言われるのは、「あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐ」ためだ、ということです。私たちが十分の一献金を献げるとき、私たちは自分の信仰(見えない物事を信じること)を表明しているのです。私たちがその信仰の一歩を踏み出すと、神が私たちを祝福するために動いてくださいます。なぜなら、その時私たちは神を喜ばせているからです。私たちは、献げ始めるとき、神が私たちの行動に応えて「あふれるばかりの」祝福を注ごうとされていることを忘れがちです。そして多くの人が「あふれる」前に諦めてしまい、神があふれさせてくださることを全然体験しないままになっています。実に、私たちは、献げ始めるとき、私たちの生において種蒔きと刈り取りの法則を始動させているのです。種蒔きと刈り取りは、まさに農業と同様です。あなたがトウモロコシを植えればトウモロコシが育ちます。逆に、あなたが雑草を植えれば雑草が育ちます。種蒔きと刈り取りは、私たちの生に用いられるとき、とてもシンプルでとてもパワフルに働く法則です。
積極的に十分の一献金を献げる人たちは、神の御心に歩んでいます。私たちが神の御心に歩んでいるとき、私たちはあふれる祝福を体験することができます。しかし、この世で生きることは常に容易なわけではありません。敵(悪魔)がやって来て、私たちの生で、殺し、盗み、破壊を行おうとします(ヨハネ10:10)。私たちが神の御心のうちを強い信仰で歩んでいるとき、私たちは力、しかも神の力のうちに歩んでいることになります。それは、私たちの周りに垣根や力場があるようなものです。サタンはヨブを攻撃しようとしたとき、神がヨブを守っておられると神に不平を言いました。神はそれを認められました。ヨブが神に喜ばれることをしていたからです。その後、ヨブの生に恐れが入ったとき、サタンはその不信仰を通じてヨブを攻撃することが可能になりました(ヨブ3:25)。最終的に、ヨブはことばと行動によって疑いと不信仰を絶ち、経済的にも、霊的にも、肉体的にも、以前にまして祝福されることとなりました。
献げることは神のご計画です。神は、ご自身の一部であるご自分の御子を私たちに献げてくださいました。それは、御子が私たちの身代わりに死に、私たちを神の御前で正しい者としてくださるためでした。神が献げることを私たちに願われるのは、次のことのためです。
1) 私たちがもっているすべての物事において神を認めること
2) 神の教会を通してこの地上で行われる神の働きを支えること
3) 私たちの生に種蒔きと刈り取りの法則が働くようにし、私たちが他の人々に対して祝福となれるようにすること
では、なぜ私たちは献げるべきなのでしょうか? それは、神が喜んで献げてくださる方であるのと同じように、私たちも喜んで献げる者であることを神が願っておられるからです。
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