「ゲイ」や「レズビアン」や同性愛者であることについて聖書は何と言っていますか?
聖書はセックスについて多くのことを語っています。みことば(聖書)は、夫と妻は、合意の上で、そして短期間でない限り、互いに相手を拒んではならないと教えています。みことばはエペソ人への手紙5章5節でも、性的にきよくない者は神の国を受け継ぐことができないと教えています。ヘブル人への手紙13章4節でも、夫婦の寝床をきよく保たなければならないと教えられています。それは、自分の配偶者に対して忠実であるという意味です。聖書にはセックスについてさらに多くのことが書かれています。セックスと聖書についての本が書けるほどです。
セックスは神が人間のためにデザインされたもので、悦び、満足、そして生殖(次の世代をもつこと)のためのものです。セックスや、クリスチャンがそれについてある程度話すことは、何も悪いことではありません。セックスは素晴らしいものです。実際、旧約聖書の雅歌(ソロモンの歌)の1章には、ソロモンと彼の妻の間のとても情熱的な愛情表現を見ることができます。
つまり、夫と妻の間の通常のセックスは良いものであるだけではなく、神がデザインされたことなのです。では、二人の男同士の性行為や二人の女同士の性行為はどうでしょうか? 同性愛に対する神のお考えはどのようなものでしょうか?
どんな問題に関しても神のお考えを知りたいなら、神のみことば(聖書)からそれを知らなければなりません。聖書は私たちにとっての究極の権威です。私たちはみことばによって、神の御声、神の導き、私たちや全人類に対する神の御心を知るのです。
歴史上最初の同性愛
聖書で同性愛について調べるなら、神が同性の人々同士の性関係を勧めている箇所を見出すことはできません。実際、人々が同性愛を行っているところでは、神はそれを罪と呼んでおられます。罪とは、神と神の道から的を外すということを意味します。創世記18章と19章には、二人の天使が、アブラハムと、ソドムとゴモラという二つの町を訪れた出来事が書かれています。私たちの主イエスの恵みがある前の時代、神はこの二つの町をそれらの性的罪のゆえに滅ぼされました。 レビ記18章22節では、同性間の性関係は、神によってはっきり、「忌み嫌うべきこと」と指摘されています。同性愛は実際「ソドミー」と呼ばれていますが、この呼び名は悪名高いソドムの町の名から取られたものです。
ある人はこう言うかもしれません。「ああ、それは旧約ですよ。私たちは今新約に生きているんですよ」と。新約聖書が何と言っているかを見てみましょう。ローマ人への手紙1章は、同性愛は、神の前に罪であり、それを行う人への差し迫ったさばきのしるしだと語っています(ローマ1:26-27)。ローマ人への手紙は、これを行う人たちは自分で選んでそうしており、悪は悪だとして罪を教える自分の良心を鈍らせてしまっており、これを行う人たちはそれが自分にもたらす病や疾病によってその代価を支払うことになる、と語っているのです。神は、神に仕えるか否かの選択を私たち全員に委ねておられます。また、神との関係を深めるか否かについても同じです。セックスをすることは選択です。生まれつき同性愛者の人も、生まれつき異性愛者の人もいません。同性愛者たちの多くは、彼らが若い時に被った性的虐待のゆえに、そのようなライフスタイルに引き込まれてきているのです。
性的繋がりは永遠に関わる
もしだれかが同性愛者のライフスタイルを正当化したいと思っても、それを正当化させるものを聖書の中に見つけることはできません。性的な罪とは、自分の配偶者以外とセックスすることだけではありません。それは結婚外での性行為のことです。ユダの手紙7節は、もし私たちが同性愛のライフスタイルに留まるなら、肉体の死の際に自分自身を永遠の火と苦しみに追いやることになると言っています。ヨハネの黙示録21章8節で、神は、天国には性的罪を犯す者はいないことを明確にされています。それは同性愛者だけを意味するのではありません。偽りを言う者や、だれでも性的に乱れた人は、ただ暗くなる一方の非常に暗い道に落ち込んで行っているのです。セックスは、神が私たちのためにデザインされたもので、夫と妻のためのものであることを忘れないでください。
神は同性愛者を憎まれますか?
私たちは、神が純粋な愛であられることを知っています。神は人間を創造され、私たちに、神を愛したり神に背いたりする自由意思を与えられました。愛とは選択です。神は、神を愛するという選択を私たちに与えられました。だれでも、「神は同性愛者を憎まれる」と言う人は、神を知らない人です。神はあまりにきよく聖であられるので、罪は、私たちの天の父なる創造者の前で容認され得ません。神の御前では、罪は罪なのです。あなたが性的に罪を犯している場合も、盗人である場合も、それはみな、父なる神の御前では罪なのです。罪とは「的を外す」ことを意味します。アーチェリーで的の中心を外すようにです。しかし、何らかの理由により、聖書において性的な罪はとても明確に断罪されています。盗みも罪です。しかし、コリント人への手紙第一6章18節によれば、あなたが性的に罪を犯すとき、あなたは自分自身の身体に対して罪を犯しているのです。罪人たちを騙している悪霊たちと同様に、罪人たちは仲間を求めます。だから、「あなたはこのように生まれついているのだよ」という偽りを信じないでください。
イエス・キリストによらなければ、私たちはだれも天国に入ることができません。ここで語られているようにイエスを主と告白することにより、私たちはみな神の御前で完全になり、永遠のいのちをもつことができます。それなのに、なぜ神から永遠に引き離される危険を冒し、罪に留まり続けるのですか? 素晴らしい配偶者を見つけ、神が男性と女性との間にデザインされた関係の満足を体験されたらいかがですか?
自由になりたいですか? このように祈ってください
天のお父さま、私のために、そして私のすべての罪のために死んでくださった、あなたの御子イエスのゆえにあなたに感謝します。私が自分の罪によって死に、あなたから永遠に引き離されてなくてすむために、イエスが三日目によみがえられたことを私は知っています。私は今、イエスを私自身の主、また罪、病、疾病からの救い主として受け入れます。私は自分の罪を告白します。あなたにお願いします。私のすべての弱さについて、私を赦してください。わたしがもっとあなたのようになれるよう助けてください。
イエスの御名によって、私は束縛を打ち砕きます。私の人生を支配しようとしている同性愛の霊を、イエスの御名によって叱ります。私は、あなたがあなたのみことばで約束されている豊かな生から、この霊が私を引き離すことを許しません。
お父さま、私は祈ります。これらの願望が私の人生に入り込んだ根本原因を突き止めることができるよう、私を助けてください。あなたを悲しませるこの性的罪を完全に取り除くことができるようになるためにです。今日私はきよくされました。私は今日から、あらゆる同性愛的願望や敵(悪魔)の攻撃と戦います。私はイエスの血潮によって解放されました。アーメン。
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