イスラム教徒たちは何を信じていますか? そして聖書は何と言っていますか?
世界には数多くの宗教があります。ヒンズー教、仏教、道教、イスラム教、また、その他の多くの宗教は、神(神的な存在)と繋がろうとしています。多くの人々が多くの神々に祈りますが、一つの神だけをもっている人々もいます。イスラム教は一つの神だけを信じる唯一神教です。彼らの神の名はアラーですが、それはアブラハム、イサク、ヤコブの神ヤーウェ(聖書の神、主)とは関係ありません。ヤーウェ(主)は、クリスチャンとユダヤ人が信じる全能の神です。イエス・キリストはヨハネの福音書14章6節で、ご自分が父なる神と関係をもつための唯一の道だと教えられました。イスラム教徒、ユダヤ教徒、クリスチャンはみな一つだけの神を信じているように見えるので、この3つを同じもののように考える人々がいます。万人救済論者(何を信じても信じなくても人間は全員救われると考える人)たちは、ヤーウェをアラーと結び付けようとし、この二者は同じ神だと言います。しかし、本当に同じなのでしょうか?
イスラム教のルーツ
イスラム教のルーツは、イスラム教の創設者ムハンマド(モハメッド、マホメット)がアラビア半島内の孤立した町メッカで生まれた、紀元570年に遡ります。イエスがお生まれになり、世界を変えられてから500年以上も後のことです。当時その地域には、クリスチャンやユダヤ教徒を含む、様々な信仰のグループが存在していました。ムハンマドの生涯の初めの部分は悲しいものでした。生まれて最初の3年間、彼は乳母に育てられました。彼は幼い少年の頃、しばしば恍惚状態に陥りました。彼の乳母は、その時彼は悪霊に憑かれているのだと考えていました。Islam, Religion of War or Peace? (イスラム教は戦争の宗教か平和の宗教か?) という著書がありますが、これはイスラム教のルーツを詳しく述べることにおいて優れた書です。ジョセフ・スミスがモルモン教を始めたことと、ムハンマドがイスラム教を始めたことが不気味なほどよく似ていることが分かります。
イスラム教という宗教は、戦争と征服の上に成り立っています。イスラム教の実践には様々なレベルの献身度があります。極端なイスラム教徒たちは、イスラム教を信じない人々を不信心者と呼びます。コーランと呼ばれるイスラム教の経典の教えによると、イスラム教に改宗しない不信心者は死ななければならないことになっています。コーランは、ムハンマドの言葉や行いについての言い伝えを集めたものです。それを読めば、イスラム教が平和の宗教であると主張するのは非常に困難であることが分かります。あるイスラム教のウェブサイトには次のように書かれています。
「イスラムの支配のために信じない者たちと戦うよう呼びかける節が、コーランには少なくとも109節ある。ある箇所はとても生々しく、不信心者がどこに隠れていたとしても首や指をはねて彼らを殺せとの命令が書かれている。この戦いに加わらないイスラム教徒は『偽善者』と呼ばれ、殺戮に加わらないならばアラーはその者を地獄に送ると警告されている。」
イスラム教は、その本来の形において暴力的で、差別的で、抑圧的なものなのです。
女性の扱い
主イエスが建てると言われた教会が、使徒の働き2章で、聖霊の力が自分たちに降るのを二階座敷で待っていた人々によって誕生しました。聖霊の力は女性と男性の両方の上に降りました。この出来事は、使徒の働き10章34節やヤコブの手紙2章にあるように、神が人を分け隔てされないことを明らかに示しています。男性と女性は神の御前で同等です。しかし、現実の生では、男性と女性にはその強みにおいて明らかな違いがあることが分かります。女性にはできるけれども男性にはできないことがあります。その逆も同様です。しかし、イスラム教においては、女性は男性の所有財産になります。イスラム社会においては、レイプされた女性は、自分をレイプした男を訴えるためには4人の男性の証人を必要とします。4人の男性の証人がいない場合、その女性は単に自分が不品行(結婚関係外での性関係)を行った、ということになるのです。
多くのイスラム教社会では、女性は自分の頭を覆わずに家から外に出ることが許されません。全身を覆わなければならない場合もあります。この頭の覆いはヒジャブと呼ばれ、全身の覆いはブルカと呼ばれています。外出する際には男性の許可を得ることが要求されるイスラム教国もあります。西洋の社会では非常に不愉快に思えますが、母親が自分の息子から外出の許可を得なければならないのです。これはただ厄介であるだけでなく、聖書がエペソ人への手紙6章2節で教えていることと異なります。この箇所で、子どもたちは、自分の親たちを支配するのではなく、尊び、敬うよう命じられています。
熱心なイスラム教徒の目から見た主イエス
イスラム教はイエスを有名な教師と見ています。また主イエスを偉大な預言者とみなしています。イエスは偉大な人物、偉大な預言者だったとイスラム教徒が言うのを聞くと、イスラム教徒たちには理解があるとクリスチャンは感じるかもしれません。しかし、イエスを知らないイスラム教徒にとって、イエスはこの世に生きた多くの偉大な預言者たちの一人に過ぎません。イスラム教徒たちはイエスの本当の姿を認めません。イエスが受肉された神だとは認めないのです。彼らはまた、イエスが、ご自分が神との関係をもつための唯一の道である、とヨハネの福音書14章6節で教えられたことを認めません。ヨハネの福音書3章16~17節から分かるように、神が世を救うためにイエスを世に遣わされたということも彼らは認めません。
イスラム教の祈り
イスラム教の祈りは多くの場合、「聖なる」町とされているサウジアラビアのメッカの方角に向かい、じゅうたんにひざまずきながら、決まった文言を唱えたり朗誦したりするものです。この宗教は現在のサウジアラビアで生まれたので、アラビア語を土台としており、祈りはアラビア語でなされます。アラビア語を話さないたくさんの人たちもアラビア語の決まった祈りを唱えますが、彼らは自分が何を祈っているか分からずにそれをしています。アラーは恐ろしくて、厳しくて、要求の多い存在です。彼らにとって祈りは、神と贖われた者との間の個人的な関係ではありません。それは、良きイスラム教徒とみなされるための一日5回の日課なのです。この点から見て、イスラム教の祈りは、仏教やその他の人間の伝統(宗教)とあまり違いがありません。イエスはマタイの福音書で6章9~15節で私たちに祈りを教えられ、全能なる神ヤーウェに「天におられる私たちの父よ」と呼びかけるよう、私たちに言われました。イスラム教の祈りには、神との真の個人的な関係がありません。神は完全であり人間はそうではないという概念はあります。しかし赦しというものがありません。また、イスラム教徒には、人を赦さなければならないという感覚や、神に近づくための本物の力が与えられているといった感覚がありません。祈りは、決まったものや書かれたものであって、造られた者と造り主との個人的な会話ではないのです。
あらゆる宗教の祈りは、決まった文言を唱えたり言ったりすることに焦点を当てる傾向があります。イスラム教では、多くの信者がイスラム教の「祈り」をアラビア語で唱えますが、彼らは実のところ自分たちが言っている内容の全てを知らないのです。これは仏教ととても似ています。仏教では、信者たちが様々な「祈り」を唱えますが、それらは神との個人的な関係が欠けており、時には意味が通じなかったり要領を得なかったりすることさえあります。しかし、クリスチャンの祈りは父なる神に向けられるものであり、会話なのです。
他者との関わり
イエスは、神と神の国の道に従う人々と、それを拒絶する人々とがいることを認めておられます。現実には、この世界にはただ2つのグループだけが存在します。それは信者と未信者の2つです。イエス・キリストの地域教会に毎週定期的に集わない人々は、将来の行く末が危ぶまれます。しかし神の国は、この地上ではまだ目に見える王国ではありません。そしてそれは目に見える王国よりも力のある王国です。それは霊的な王国なのです。イスラム教はこの世の社会に入り込み、それを征服しようとしています。イスラム教は宗教であるだけではなく、政治的な組織なのです。
イスラム教は、その信奉者たちとそれに興味を示さない人たちの両方を支配しようとする、一つの生活様式です。ほとんどのイスラム教国の市民たちは、望むか望まないかに関係なく、それに自分を合わせることを強いられます。女性は公の場では頭に被り物を着けなければならず、どんな形でも男性を支配するように見られることが許されません。人々は「祈り」のために毎週モスクに行くよう強制されます。イスラム教徒でない人は尊敬されず、それゆえ、クリスチャンやノンクリスチャンがイスラム教徒の人と真に繋がりをもち、信頼関係を築くことは困難です。
イスラム教の概要
- アラーという名の唯一の神がいる。
- 信者たちは、発祥の地であるメッカを一生に一度は訪問することが求められる。
- 一日に5回メッカに向って祈りを唱えることが求められる。
- 女性は男性に服従しなければならず、多くのイスラム教国では物事を決めることが許されない。
- 通常は、イスラム教徒でない他の人々の集団と平和的に共存できない。
- スンニー派とシーア派という2つの大きな派がある。
- 牛、羊、山羊といった動物は、認定された人々により、認定された方法で屠殺される。このことはハラルと呼ばれる。イスラム教徒はハラルと認められた肉だけを食べることができる。
- ハラルの屠殺法は動物に大きな苦痛をもたらす。
- イスラム教徒は豚肉を食べることができない。
- 女性は生理が始まった年からヒジャブ(頭の覆い)を着けることが求められる。
イスラム教については他にも語るべきことがたくさんあります。天使、神、性、死後の生などについての考え方は、世俗の考え方とも、ユダヤ・キリスト教的考え方とも相容れないものです。イスラム教の大部分は、素晴らしい人々である穏健なイスラム教徒たちから成り立っています。多くの穏健派の人々は、多文化の社会の中で他の人々を受け入れています。しかし、イスラム教の政府が一国を支配している所ではかなり異なります。人を愛し、人々の間で平和、自由、善を追い求めるよう教えられているクリスチャンたちとは異なり、過激なイスラム教徒たちは、自分たちに同意しない人々を圧迫しようとします。
私たちはイスラム教徒たちのために何ができますか?
神が宗教をどう見ておられるかについて、こちらをお読みください。 イエスに従う者である私たちは、イスラム教徒たちに、神が人格的なお方で、彼らを愛しておられ、神が私たちに自由意志を与えられたことを示さなければなりません。イスラム教徒だった人たちはいつも、神が自分と個人的な関係をもちたがっておられることや、神が人格的な交わりをもてない天にいる厳しい老人のようではないことに驚いた、と話してくれます。イスラム教はとても抑圧的な宗教であり、人々がそこから解放されるには祈りが必要です。神の力はどんな宗教よりも強いものです。多くの場合、人々は、神が私たちの生の中で生きて働いておられることを、聖霊の賜物 を通して知る必要があります。ここに書かれた、イエスを受け入れる方法を人々に分かち合ってください。そして、人々が聖霊のバプテスマを受けるように導いてください。
イスラム教徒の友人たちのための祈り
父なる神さま、わたしは (人々の名前) のために祈ります。わたしたち人間がメシアなるイエスを通して頂く、本当の救いを彼らが知ることができるように、どうぞ、あなたの聖霊によって彼らを近づけてください。彼らの心に自分の罪を認めさせてください。そして彼らにあなたの愛を示してください。彼らがあなたを人格的に知ることができるように、彼らをあなたの愛で包んでください。父なる神さま、わたしはイエスの御名によって祈ります。彼らがどこに行っても、彼らが何をしても、あなたとあなたの御言葉を知っているクリスチャンたちを彼らの周りに置いてください。イエスがあなたに至るための唯一の道であるという真理を啓示する、夢や幻を彼らに与えてください。あなたご自身を彼らに啓示してください。主よ、彼らのゆえにあなたに感謝します。彼らを取り囲むあなたの愛を感謝します。それは彼らを永遠に変えるものです。油注がれた方であるイエスの力ある御名によって、あなたにこのことをもう一度感謝します。アーメン。
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フェイスプロを読んでくださり感謝します! あなたは真理を知りたいのでフェイスプロを読んでおられるのです。御言葉の真理はあなたを自由にします! その自由を自分だけにとどめないでください! 下のボタンを押して他の人たちに分かち合ってください。一言の神の御言葉がだれかの人生を永遠に変えることがあるのです! イエスは主です!